法話演題「全きいのち」

 

死産で赤ちゃんを亡くされた、あるご遺族への通夜説法


 これでお通夜の読経を終わり、これから少しお時間をいただいて話をさせていただきます。
 昨日、枕経にうかがった際ですが、その場にいらっしゃったご親族の皆さまが「早すぎた」「可哀そうに」と、しきりにそうおっしゃっているのを耳にしました。確かにそうかもしれません。人生百年時代とも呼ばれる長寿の現代においては、お子さまの命は短かすぎたのかもしれません。

 私が人の命を考える時に思い出される言葉があります。江戸時代の末期、後に明治維新の推進力となった高杉晋作や伊藤博文を輩出したことで有名な、吉田松陰先生の言葉です。

 人の命にはそれぞれに春夏秋冬の四季が巡っている。十歳で死ぬ者にも十歳の四季が。ニ十歳で死ぬ者にもニ十歳の四季が。五十歳、百歳にもそれぞれの四季が巡っている。十歳の命をもって短いと言うのは、その人が生きた十年の天寿を見ていないのであり、百歳の命をもって長いというのもまた、百年の天寿を見ていないのである。私は間も無く、何も成し遂げることなく死んでしまうが、そんな私の命にも、きっと豊かな四季が巡っていたのだろう、と。

 要約を致しましたが、松陰先生は二十九歳の時、志半ばで幕府に処刑される直前、自らの死を悟って今のような言葉を遺されました。短い、長いということは人の計らいであって、命とは、その長短に関わらず豊かに完結しているのだと、そうおっしゃっているのです。

 また私たちは人の死を「生に対する敗北」のように考えてしまいますが、仏教の世界では「死」というものもまた、生きることと同じように、かけがえのない私たちの命の現れそのものだと説かれています。

 この度、悲しくもお生まれになったばかりのお子さまのお葬式をつとめることになりました。誰しもが、短すぎた、早すぎたと思われたことだと思います。確かにその通りかもしれません。ですが、お子さまのその短かかった命の中にも、豊かな四季の巡りがあったことを忘れないでいただきたいのです。

 枕経の際に言っておられましたね。お腹の中に子どもを授かった時、心の底から嬉しかったんだと。お腹の子の成長を、時には不安に駆られながらも、ずっとずっと見守ってこられたはずです。生まれてくる子のお名前を考えたり、育児のための勉強をしたり、ベビー用品の買い出しに行ったり。そうした思い出のひとつひとつが、お子さまの命そのものであって、お父さん、お母さんと、共に生きてこられた証なんです。今感じておられるその深い悲しみさえ、お子さまと共に生きてこられた証なんです。

 短い命だったと言った時に、そうして精一杯生きてこられたお子さまの、大切な生涯を見落としてしまわないように。お子さまは確かに生まれてきてくれて、一緒に生きてくれたんだと。どうか、「頑張ったね」、「生まれてきてくれて有り難う」、というお気持ちでお子さまを送ってあげていただきたい。

 またご親族の皆さまにおかれましては、「まだ若いから次があるじゃない」などとは思わないでいただきたい。お父さん、お母さんにとって、この子は誰にも代えることのできない、大切なお子さまなんです。どうかお気持ちをひとつに、ご一緒にお子さまの安らかなることをお祈りしていただきたいと思います。
 明日はお葬式になります。私も精一杯、僧侶としてのつとめを果したいと思います。ご静聴、有り難うございました。