仏教のお話

仏教に関する住職の法話を掲載していきます。
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信仰のかたち

仏教徒の信仰のあり方を身近な例から紹介していきます。
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仏事Q&A

曹洞宗の仏事について、丁寧に説明していきます。
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礼拝(らいはい)

平成27年7月

 仏教徒にとって最も基本的な教えは「帰依三宝(きえさんぼう)」の教えです。これは、仏法僧(ぶっぽうそう:仏、仏の教え、僧侶)の三宝に帰依すること。帰依とは、私の考えや私のわがままを投げ捨てて、帰依する対象に素直に従っていくことです。写真のような礼拝は、この帰依を表す行(ぎょう)として最たる信仰のかたちです。どれだけ優れた教えであっても、受け取る側の心が利己心や慢心にまみれていたら毒薬にしかなりません。その意味で、仏教を信仰する人にとっては極めて大切な行なのです。
 これは私が聞いた話ですが、ある日、静岡県のとあるお寺に、檀家の女性が娘さんを連れて訪ねて来られたそうです。女性はこうおっしゃいました。「娘もようやく二十歳になりました。そろそろお拝(礼拝)を教えたいのですが、方丈様、どうか娘にお拝を教えて下さいませんでしょうか。」と。方丈様は多忙の折であったものの、時間を割いて丁寧に礼拝の仕方を教えられたそうです。
 東南アジアの仏教国やチベットなどでは、この礼拝は在家信者にとっても一般的な行いです。しかし日本ではほとんど見ることができません。この静岡のお寺は明治時代の傑僧(極めて優れた僧侶)によって開かれたお寺ですが、現在の方丈様に至るまでの真摯な精進と布教によって、仏の教えが檀家さんに深く浸透してきたのだと思います。

ご本尊様にお参りする

平成27年11月

 僧侶としての私を育てていただいた、京都府宮津市にある修行道場「智源寺」。私がまだ修行僧だった頃、ある日の掃除の最中に子どもの元気な声が聞こえてきました。
「ご本尊様!いつも見守ってくれてありがとうございます!これからもどうかよろしくお願いします!」
 ハッとさせられて声の方を向くと、若いお母さんが小学校低学年くらいの子どもを連れて本堂前でお参りをなさっていました。二人はねんごろに手を合わせると、そのままお墓参りに行かれました。お子さんもさることながら、その子を教えるお母さんも、立派なお心掛けだなぁと感心したものです。
 お寺の本堂にはご本尊様をはじめ、たくさんの仏様やお寺の歴代住職様方がお祀りされています。お墓参りであれ観光であれ、お寺にお参りするときにはまずそういった本堂の仏様方にお参りしてご挨拶するのが慣わしです。手を合わせるだけでも構いませんが、丁寧になさるならロウソクをつけて線香を立て、日頃のお礼などをお伝えになるといいと思います。また、お賽銭を無造作に投げ入れる方も多いですが、人に贈り物をするときに投げ渡すことがないように、お賽銭も仏様へのご供養ですから、あまり雑にならないようにお入れになるのが良いでしょう。
 お寺に参ったらまずご本尊様方にお参りする。簡単なことですが、とても大事な信仰のかたちです。

お地蔵様の前掛け

平成28年3月

 「損か得か」。これが近代資本主義の浸透した現代の根本的な価値観です。そして利益を追求しすぎるがゆえに、結局自分自身も不幸にしてしまっているのが現代人なのでしょう。自分の利益を省みず他のために施す「お布施」はそんな現代社会の価値観の全く逆をいく行いではないでしょうか。それゆえに伝えることが極めて困難で、またそれゆえに現代を生きる人々にとって、本当に必要なことのように感じます。
 お寺に住んでいると、たくさんの「お布施」に出会います。法事やお葬式のお布施もそうですが、檀家さんが作られた野菜や料理などをお裾分けしていただいたり、一緒に庭の掃除をしていただいたり、優しい励ましの言葉をかけていただいたり。そのそれぞれが、自分の利益を省みない、尊い「お布施」です。道元禅師は「人を利益(りやく)していくということは、同時に自分をも利益しているのである」と説かれます。自分にとって何の得にもならないと思われる行いにこそ、自身を幸せにするヒントが隠れている。
 あるお寺での出来事です。玄関先に一人のおばあちゃんがいらっしゃいました。「お地蔵様の前掛けと帽子を縫いましたので、ぜひお地蔵様に着せてあげて下さい。」私は早速お地蔵様に新しい前掛けと帽子をつけて差し上げました。ご一緒に手を合わせるおばあちゃんの表情はとても満ち足りていて、またとても幸せそうでした。

放生(ほうじょう)

平成28年7月

 放生という言葉をご存知でしょうか?放生とは、捕らえた生き物(魚や鳥など)を逃がしてやることで善行(ぜんぎょう)を積む修行です。例えば、漁師さんがたくさんの魚を獲れば、中には食べられないような魚も交じっています。そこでその魚をいらないといって棄ててしまえば、それは戒律の「不殺生戒(ふせっしょうかい:殺してはいけない決まり)」を犯してしまう。そこで食べない魚は海にかえしてやることで、悪行を積まないようにするのです。日本でもたまにテレビなどで話題になりますが、東南アジア地域の仏教国では在家信者にとっても日常の風景です。写真はバンコクの道端で放生用の小魚などを売っている様子です。放生で商売をしていては本末転倒のような気もしますが、大切なのはその心掛けでしょう。
 曹洞宗の道元禅師は、洗面のために水を桶にすくい、必要な分だけを使って残りは川の流れに還されたと云います。生きるために他の命をいただくことは避けては通れません。しかしながら、生きるための最小限だけをいただくように心掛け、無駄な殺生を避けることで、すべての命が生かされる道が開けるのではないでしょうか。

子どもたちの草むしり

平成28年11月

 行脚中、とあるお寺の東堂様(とうどう・住職を引退し、隠居しながら後人の指導をするご老僧)のもとで教えを乞うていた頃のお話。
 ある日の夕方に庭の草むしりをしていると、数人の小学生がお寺を訪れて一緒に草むしりを始めました。聞いてみると、学校が終わったあと、たまにお寺に来て手伝いをしているということでした。私も小さな頃はよくお寺で遊んでいましたが、さすがにお寺の草むしりをしようなどとは考えたこともありません。その普通じゃないはずの光景が、とても自然に馴染んでいることに感動を覚えました。しばらくすると、方丈様がお供え物のお下がりを持って来られ、子どもたちに渡した後、子どもたちは方丈様と一緒に仏様に手を合わせ「ありがとうございました」と言って帰っていきました。
 草むしりをしてあげた、ではなく、させていただいたと思える。損得基準のそろばんでははじけない価値を、この子どもたちはその小さな体に刻んだことでしょう。
 このお寺は、明治期以降に永平寺のご住職をお二人も輩出された名刹(有名なお寺という意味ではない)で、今の東堂様も、中央権力に寄らず静かに淡々と修行に励んでおられる立派な方です。長年に渡る修行が地域や檀家さんにまで浸透しているような、不思議な雰囲気のあるお寺でした。

お袈裟を縫う

平成29年4月

 「お袈裟を縫う会」というお寺の行事をご存知でしょうか。曹洞宗のお寺の中でも特に信仰の深いところでは、近隣のお寺さん方も含め、檀家の皆さんがお袈裟を縫うために集う会があります。
 お袈裟は、よくご覧になると分かるように、たくさんの生地を縫い合わせて仕立ててあります。これはお釈迦さまの時代、僧侶の着るお袈裟は、道端に捨ててあるような使わない布片を綺麗に洗い、形を整えて縫い合わせて作られていたという故事にちなんでいます。また、縫い合わせたお袈裟の形は田んぼに例えられ、福田として多くの実りを与えるものとされました。
 元来、僧侶は出家をして修行に専念する存在で、在家の皆さんは自分たちが出家をできない分、僧侶の皆さんに様々なものを供養することで少しでも善い徳を積もうとしたものでした。そんな中で、お袈裟を縫って僧侶の皆さんに供養するという行いは、最も尊い善行のひとつとして、今でも連綿と続いているのです。
 お袈裟を縫うのは大変なことですし、私も一枚仕上げるのに二年ほどかかりました。ですが、縫っていくひと針ひと針に、仏教の歴史や意義の奥深さを感じ、生きとし生けるものたちへの慈悲の心さえ湧いてくるものでした。

一番をお供えする

平成29年11月

 あるご老僧のもとで修行していた頃のお話。そのご老僧のお寺では朝十時と午後三時にお茶を飲んで休憩することになっていました。お茶を入れる湯呑は飲む人数よりひとつ多め。その余分の湯呑に一番にお茶を注ぎ、お位牌の前にお供えします。そのお位牌はご老僧のお師匠様のお位牌でした。自分を育ててくれた師匠にまず一番のお茶を飲んでいただく。こうした心掛けが、私たち僧侶の修行にはとても大切なこととされていました。
 お仏壇をお持ちのお宅では、毎日お仏壇のお世話をされることと思います。お水やお茶、ごはんなどをお供えされる方が多いでしょうか。その時に肝心なことは、「その日一番をお供えする」ということです。その日最初に汲んだお水。その日一番に淹れたお茶。その日一番のごはん。自分よりも先に、まずはご本尊さまやご先祖様に供養し、朝のあいさつをする。
 永平寺さんのような修行道場では、食事のたびに仏様用のお膳が作られ、雲水たちより先に恭しく仏さまにご供養されています。また一般のご家庭でも、食事の際にごはんやおかずをよそって、お位牌の前にお供えなさっている方もいらっしゃいました。こうした心掛けが、その日一日の暮らしの礎となり、毎日の習慣にしていくことで人生をも豊かにしていくのだと感じます。

お寺と神さん

平成31年4月

 昨年八月末、秋の仏前結婚式に先立って、お隣の日吉神社さんで結婚の報告をさせていただいたところ、「ご住職が神社さんで挨拶をする必要があるんですか?」というようなご質問をちらほらと頂きました。
 ご存知の通り、明治時代に政府から「神仏分離令」が出されるまで、神社とお寺は兄弟のように親しく歴史を刻んでいました。神社の中で仏様をお祀りしたり、お寺の中で神さんをお祀りしたり。昔は当たり前のように行われてきたのです。明治政府の愚行は今でも日本国民の宗教意識に大きな影響を及ぼしていますが、その神仏習合(しんぶつしゅうごう:神と仏を融合した信仰思想)の名残りは今でも残っています。
 例えば、お寺の毎朝のお勤めでは、土地の神様への祈願をさせていただいておりますし、安養寺の墓地の入り口近くには、お稲荷さんと日吉さん(氏神さん)がお祀りしてあります(お堂が傾いているので直さないといけませんね)。また、庫裡の方でも、神棚をお祀りしております。お寺では古くから、お寺や仏法の守護神として、土地の神様を大切にしてきたのです。
 そのようなわけで、住職が結婚をするに当たり、土地神様に挨拶に伺うことはとても自然なことと言えます。共にこの地域を見守っていく存在として、これからも神様を大切にしていけたらと思います。