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- 「救済」と「依存」
「救済」と「依存」
令和7年10月
仏道をならふというは
自己をならふなり
『正法眼蔵』現成公案
永平寺を開かれた道元禅師の有名なお言葉で、(前後の文脈は別として)意味はそのままに「仏の道をならうということは自分自身をならうということである」となります。
仏教とは、私たちが苦悩から離れ心安らかに生きていく道を説かれた教えです。私たちを取り巻く多くの苦悩から離れるためには、(坐禅などを通して)自分自身をよく観察し、苦悩の原因をつきとめ、苦悩をコントロールするために自らの行いを正し、苦悩が起きにくい(物心両面の)環境を整えていくことが大切です。
つまり、苦悩は外からやって来るのではなく自分自身の中に生まれるものであるからこそ、苦悩の原因を自分自身の中に見つけ出し、自分自身の手によってそれを取り除いていこうという道が仏道であり、お釈迦さまの時代より、道元禅師を経て今の私たちにまで伝わる教えなのです。
さて、宗教離れが進んでいると言われる現代の日本ですが、その実、宗教離れはさほど進んでおらず、形を変えているというのが正しいところです。長引く不況や物価高、少子化や家意識の低下などにより、「先祖供養」に対する世間の考え方というのは急速に変化し、宗教儀礼の簡略化や低価格化などが進む中で、それらが短絡的に「宗教離れ」と呼ばれることもあります。しかしながら一方では「スピリチュアルブーム」と呼ばれる時代も、ここ数十年で大きく盛り上がっているという側面もあるのです。例えばいつ頃からか聞かれるようになった「パワースポット」巡りや、「仏像ガール」や「御朱印ガール」の登場、また「龍神信仰」なども異様な盛り上がりを見せています。近代で言えば七十年代や八十年代に見られたオカルトブームをそのベースに置いているようにも感じますが、リーマンショックや東日本大震災、未曽有のコロナ禍など、世間が大きな不安に包まれる中でその「不安の拠り所」として加速度的にブームが大きくなっているのではないでしょうか。
そんな中、「うちの家族が、ある「拝み屋」さんに心酔してしまい家族の言うことを聞かなくて困っている。なんとかしてもらえないか」というような相談を受けることも出てきました。拝み屋さんと一言で言っても様々な方がいらっしゃるとは思いますが、端的には目に見えない問題を目に見えない力で看破し解決してくれる方々、などとでも言っておきましょうか(伝統仏教寺院のご住職などの場合もある)。
例えば「あなたの不幸は何代前のご先祖様がきちんと供養されていなくて怒っていらっしゃるせいだ。今すぐ位牌を作って拝みなさい」、「この寺社の龍神様はパワーがある。あなたの商売を成功させるにはこの寺社の龍神様を拝みなさい」など、相談者の目には見えない世界を、目には見えない力で解決してくれる。そのような存在です。
ここで始めに申し上げた仏教の考え方に戻ってみましょう。仏教は苦悩の原因を自分の中に見つけ出して自分自身で解決していくことを説いているとお伝えしました。それに対し、例に挙げたような拝み屋さんのケースはどうでしょうか。「あなたの不幸は何代前のご先祖様がきちんと供養されていなくて怒っていらっしゃるせいだ」というのは、苦悩の原因はあなた自身にあるのではなく目に見えない外的要因であるということ。そして「今すぐ位牌を作って拝みなさい」と、その目に見えない外的要因にアプローチすることで苦悩を除きなさいと教えます。また「この寺社の龍神様はパワーがある。あなたの商売を成功させるにはこの寺社の龍神様を拝みなさい」というのは、商売が成功するか不安だからこそいらっしゃった相談者に対し、これも不確定な外的要因にアプローチすることで安心を与えようとする試みです。
苦悩が自分自身から生まれてくる以上、自分自身の中にある苦悩の原因を解決しない限り、延々とその苦悩に苛まれてしまうのは道理です。不安だからと言ってその原因を外に求め解決をしようとしても、また同じ不安におそわれることも道理です。
古くパーリ仏典・長部経典の『梵網経(ぼんもうきょう)』の中では「占術」の類は明確に忌避されていますし、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』にも占いは人を欺き惑わすものとして、お釈迦様がきっぱりと断罪なさるエピソードが登場します。なぜお釈迦様は占いを嫌われたのか。それは目に見えない力への依存が仏道(本当の安心への道)に背くからに他なりません。仏教の長い歴史の中で、祈祷や吉凶占いなどの要素も受容されるようになってきたとは言え、本質を見失ってはお釈迦様に顔向けができないでしょう。
人の苦悩につけ込み、苦悩を煽り、一時的な救い(麻薬のような快楽)を与え、苦悩が再発すればまた一時的な救いを与える。問題が解決すれば拝み屋さんの力は本物だとさらに信じ込み、解決しなければ自分の拝み方が足りないのだと信じ込む。永遠に解決しない苦悩のループに誘導し、自分に依存させる。(拝み屋さんご自身が無自覚な場合も含め)そのような拝み屋さんも多いのです。
もし的中率百パーセントの預言者が目の前に現れたら、皆さんはその人を神様のように信仰しますか?
私なら決してその特殊な力に頼ろうとはしないでしょう。なぜなら、その力に依存してしまえば、その予言なしには不安で生きていけなくなることが容易に想像できるからです。またその力を求めるあまり他の信者と喧嘩になったり、力を独占したくて預言者との仲違いを画策したり…。その預言者がいなくなれば麻薬を摂取出来ない中毒者のようになってしまい、代わりになってくれる預言者を必死で探そうとするでしょう。そんな状態で自分が救われていると言えるのでしょうか。言えやしません。それはただ、不安で仕方がない自分から逃げ続けているだけなのです。
自分こそが自分の救い主である
他の誰が自分の救い主になれようか
よく調えられた自分の中にこそ
他に得難き救い主を得るのだ
お釈迦様の言葉『法句経』より 拙訳
仏道は「救済(根本的な安心)」を得るための道です。決して人を「依存(一時的な快楽から逃れられなく)」させるためのものではありません。檀信徒の皆さまにおかれましては、ご自身やご家族の皆さんがこのような依存症に陥らないよう、気をつけて見ておいてあげて下さい。また、一度そのような依存状態に陥ると、ご本人の力で抜け出すことは極めて困難です(ご家族の説得が裏目に出ることも)。お困りの際は必ずご相談ください。
祈りは大切な行いです
自分だけでは耐え難い苦悩、不安にのまれている時、神仏への祈りは大きな安心感を与えてくれるでしょう。どん底の苦しみから立ち上がる時、それは何よりの支えになるに違いありません。病気で手術を受ける時、受験の前、家族の安寧を望む時、太古より人は祈りを捧げてきました。何を信じるかは人それぞれです。寄りかかる時は思い切り寄りかかればいい。ただし、自分の人生の舵取りを他者に任せてはいけません。たとえおぼつかなくとも、自らの足で歩んでいくことが大切です。


